2017年5月9日火曜日

ファッションから遠く離れて

西洋の歴史の中で視覚芸術の一分野として発展したファッションは、
絵画なしには存在し得ません。
現在だったら、写真なしには存在しないということです。
なぜなら、それはいつでも「絵」として素晴らしいことが重要だからです。
(だから、外国の優れたファッション誌は写真表現に重きを置きます。
優れたフォトグラファーの写真のない、
お買い物ガイドや単なるモノの説明だけのファッション誌は、いわば三流誌です)

翻って、その他の多くの民族衣装は、
形状を変化させるのに何百年も要する場合も多く、
必ずしもそれが絵的である必要はありません。
それよりも重要なのは、それによって示す身分や家、階級などです。

例えば、その飾りや色はこれこれこういった階級にのみ許されているとか、
ある職業を受け継ぐ家系だけが許された文様とか、そういったものです。

キモノの場合でしたら、
振りそでは未婚の女性が着るものと決まっています。
それがどんなに、今格好よく見えるからといって、
既婚者が着ることはできません。

もちろんこれの枠内では柄や色の多様性は許されますが、
それでも出てはいけない枠がきちんとあり、
人々はそれを見て、ああ、あの人はどこどこのおうちの、何歳ぐらいの、
結婚している人ねなどと判断するわけです。

西洋の衣服は、この色、柄、文様による階級の識別から自由になったところで発展してきました。
もちろん王侯貴族はそれなりに豪華なものを着ていたでしょうけれども、
王侯貴族のスタイルを真似することさえ可能なのが、
西洋の衣服です。
それは、例えば禁色があるような文化とは違います。
(三島の「禁色」じゃないよ)

さて、ここまで書いて、
勘のいい方々は、私が何をこれから言いたいのか、
お気づきでしょう。
わかりました?

よく見かける光景なのですが、
どう見てもお洋服はしまむらかそこらで買ったようなものなのに、
バッグがルイヴィトンとか、
なぜか財布だけシャネルの方。
あれを見るたびに不思議に思っていて、
なぜそうなるのか理解不能だったのですが、
これでわかりました。
そういう方々は、洋服を着ながら、マインドは民族衣装だったのです。
つまり、持ちモノで自分の位なり身分を証明できると考えているのです。

資本主義社会において、
身分が高いとは、旧華族だった、などという話ではなく、
お金がある、ということ。
ルイヴィトンやシャネルは高価なので、それを持ちさえすれば、
この資本主義社会において、自分は身分の高い存在だと誇示できると、
意識的なのか、無意識なのかはわかりませんが、
思っているのです。

まあ、そこまで身分を意識してはいなくても、
昨今流行りの「マウンティング」行為というもので、
つまり、私はあの人よりお金がある、強いては身分が高いのであると、
表現しているのです。

しかし、身分が高いのなら、しまむらや、その他ファストファッションで買う必要などなく、
それらはすべてフェイクです。
いや、フェイクじゃない、お金はあると言うのなら、それは成金です。
本当のお金持ちはそんなことはいたしません。
少なくとも、そんなバランスの悪いことはしません。

身分が高い人が、そんなことをしない理由は、
彼らには困っている人を助けなければならないという義務があるからです。
(それをノブリス・オブリージュと言います)
だから、奴隷的な労働の上に成り立っているファストファッションを
身分の高い人は、買ってはいけないのです。
(ジェーン・オースティンの「エマ」の中で、エマがナイトリーさんに叱られた、あれです)

(昔、読んだパリジェンヌが書いた本の中に、
安いアパルトマンに住んでいる人がエルメスやシャネルのバッグを持って外出することは、
非常に恥ずかしい行為である、という文章がありました)

もちろん西洋の衣服にとって「表現の自由」は大事なので、
そんな格好をしても構いません。
だけれども、それはファッションからは遠く離れるのです。
つまり、それはファッショナブルではないのです。
なぜなら、調和のとれた絵ではないから。

でも、ブランドのバッグにはブランドのマークやロゴはついているよと、
それはなんでなの?と言うでしょう。
そりゃ、向こうだって売りたいですから、
そのほうが売れるってなったら、なりふり構わずブランドマークをでっかくつける
ブランドもあるでしょう。

The Sartorialistなんかを見ているとわかるけれども、
そういうブランドマークだけが目立つようなスタイリングの人は「絵」にならないので、
選ばれていません。

長いので終わらせますが、
西洋の衣服の文脈に、その民族衣装的なマウンティング行為を投入しても、
それは、「ファッショから遠く離れて」いる、ということです。



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