2017年4月9日日曜日

手作りの痛み

やっとうちのピンクダイヤモンドというチューリップが咲いてきました。
近所の桜もいい感じになってきましたが、
本日は雨。
そして活字を見過ぎたのか、
さっき目が覚めたら、虚空に白い文字のテキストが浮かんでいるのが見えました。
なんて書いてあるのか読もうと思ったら消えたけれども、
あきらめたら、また出てきたんですけれども、意味はわからなかったです。

そんなことはどうでもよく。
ここのところうちに来るクライアントさんたちが選ぶものには、
手作りの跡が見え隠れするものが多く、
明らかにそれが1つの傾向としてあると感じます。
モノクロームのディストピアには、
この手の跡が残るような、そんな衣服や装飾品はないと思う。
ないというか、排除されるでしょう。

みんながそれを望むとも、欲するとも、
ましてやそれを実際に自分で作るとも思いませんけれども。

で、その手をかけた感じ、丁寧に作られた感じの魅力とは何だろうかと考えたとき、
それはそこに痛みがあるからだろうと、
さっきふと思いつきました。
その痛みこそが、魅力。
それは痛みで裏打ちされている。
(あ、これも関係ないけどあるけど、
裏打ちというのは、例えば薄い生地に強度をもたせるとき、
裏にもう一枚布を抱き合わせて作るやり方で、実際にある手法です)

その痛みがあるから、私たちは手の跡があるものを捨てられない。
もう着ないとわかっていても、
自分で編んだセーターはたぶん捨てられない。
モノとしては機能しなくても、その痛みを捨てられないのでしょう、たぶん。

痛みのない絵画や音楽が全く魅力的でないように、
痛みのない衣服なんて、さほど魅力じゃないのです。

で、私たちがそれを欲するということは、
つまり、私たちもそれを持っているからでしょう。
(その痛みの根源は、たぶん子供や幼児の時代にある。その生々しい傷の跡)
だから、痛みがあるっていうことは、すなわち魅力的であるということですよ。
だから、それはあってもよいのです。

そういうことがわかっているので、
その痛みのない魅力的でないものだらけで固めようとする人たちに、
私はこれっぽちも共感しません。
あのモノに対する粗雑な感じ、愛情がない感じがどうも無理。
まあ、向こうも共感を御望みではないだろうけれども。

何かをつくるって楽しいだけじゃないから。
けれども、それは、
何かつくっている人、一生懸命つくったことがある人にしか、
わからないのでしょうね。