2017年8月22日火曜日

コンカツファッションで聞いた話

きのう聞いたコンカツファッションの話。

その方はコンカツのセミナーを開いていました。
あるとき、参加者の30代後半のお二人が、
「おまえら双子かよ?」というようなとっても似たスタイルでいらしたそうです。
色だけ違って、ジャケットもアクセサリーも一緒。
お話を伺うと、
全く同じところのファッションコンサルタント(しかも表参道に事務所とセミナールームがある)
に色とスタイルを決めてもらった2人だったそうで、
その人曰く
「遠縁の親戚のおばちゃんか」と思ったそうです。
私が「それってもしかして、父兄参観みたいなスタイル?」と質問したら、
まさにそうであったと。

ただその方たちは、「ザ正解」みたいなお二人だったので、
それではちょっと無理と言っても、聞いてくれないんですって。
しかもそれを決めてもらうのに相当お金を払ったらしくて、
それも譲れない原因みたいで。

まあ、私は男じゃないからわからないので、
もしかして、
「遠縁の親戚の双子のおばちゃん」があらわれて、
それがいいっていう男もいるかもしれないので、
それがだめとは言いませんけれども・・・
なんか、そういう父兄参観に出ていそうなスタイル、たまらないみたいな?
そういう人がいるのかも、しれないです。
お好きにしてちょうだい。

今日はこんな感じで、
あとで書き直すかも・・・


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2017年8月21日月曜日

主流にのらなくてもよい

ファッションというものは常に変化していきますから、
ここで完成!と思っても、
すぐまた違うほうがよいということになってしまいます。
川の真ん中にずっと止まっている状態がおしゃれなのではなくて、
ともに泳いでいかなければなりません。

ということは、常にどうやってこの流れについていくかを考えて、
それに対応しなければならない。
元気だったり、お金があったりすると、
この流れに容易に対応できるかもしれませんが、
そうじゃないときには、流れについていけないときもあります。
でも、それはそれでいいのではないでしょうか。
いつもその流れについていく必要なんかない。
というか、それは不可能。

不可能ということを知っておいて、
かつ、どうやったら流れに乗れるかもわかっておいて、
それで選択すればいいと思うのです。
はい、はい、いまはその流れなのね、
わかっているけれども、私はあえてやりません、とか。

または大きな主流には乗らない。
支流へいくとか、小川へいくとか、それはいろいろあります。
(実は、本当におしゃれな人は主流に乗りません。あえて避けます)

日本に住んでいる日本語文化圏の人たちは、
この主流にのりたがる傾向があるのかなと思います。
だから、一番人気のバッグの色はとか、何が売れているかとか、知りたがる。
(本当におしゃれな人は、それを真っ先に避けます)

色のハーモニーを除いては、
絶対なんてないから、
その主流の旬は短いのです。
だって、流れているから。

もうちょっと皆さんもその仕組みを知って、
あ、そう、そうやってあおってるのね、ふ~んって見られるようになると、
せわしなくいつも追われているような気分から脱出することができると思います。


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2017年8月20日日曜日

建設的な復讐

人は皆、人生の大半をリベンジのために生きていると
どなたかがおっしゃっておりましたが、
それは本当ですね。
そのほとんどは母への復讐、父への復讐です。

夫への復讐のため、拒食症になるという方もいらっしゃいましたが、
人間の復讐エネルギーはすさまじくて、
毒が戻って自分が死にそうになったりします。
けれどもやるのよね。

スイーツを食べ続けるのも、
服を買い続けるのも、
それを与えてくれなかった両親へのリベンジです。
そうしなきゃ、気が済まない。

ほんとうの人生は、このリベンジがひととおり終わった後、始まります。

では、この復讐行為のすべてが悪いかというと、
そうでもないです。
建設的な復讐というのもあります。

仕事を成し遂げたり、作品を作ったりするのも建設的な復讐。
いまに見ていろとか、そういうエネルギーです。
それはばかにならない。
親のようになりたくないからめちゃくちゃ努力する人はたくさんいます。
それも建設的な復讐。

単なる復讐を建設的な復讐へするためへのポイントは、
それを自覚することです。
ああ、私、親みたいになりたくないからやっているんだなと、
そう思ってやる分には大丈夫。

例えば、お母さんみたいになりたくない。
あんなのは嫌だとなって、
一生懸命努力して、母親に負けない自分になって、
お母さんみたいにならないという夢が達成したら、
自由になれます。
そのときには何でもできるようになります。

復讐してもいい。だけれども、建設的にね、という話でした。


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2017年8月19日土曜日

なぜ着る服がないと思うのか

いつも言っていますけれども、
服というのは必ず未来の自分のために買いますよね。
未来は明日かもしれないし、1カ月後かもしれない。

着る服がないということは、
過去の自分の選択が間違っていたということです。
自分が過去に予想した自分像と、現在のリアルな自分がずれている、
ということ。
そのずれが小さかったら微調整ですむけれども、
大きければ大きいほど、調整が難しくなります。

私たちは毎日、過去の選択の上に生きています。
服を着るというのは、その象徴的な行為。
学校も、仕事も、結婚も過去の選択。

過去の選択が本当に合わなかったら、
転校したり、転職したり、離婚したり、
大変ですけれども、行動力がある人は動きます。

では、服の選択は何を基準になされるのか、ということです。

衣服は人と社会との最初の接点です。
衣服の選択は、自分の社会的な立場の表明であり、
社会的なアイデンティティでもあります。

学校の制服は、今、私はここの学校の学生ですよという社会的なアイデンティティの表明です。
そのアイデンティティと自分が一致しない、絶対嫌だと言うのなら、
それを脱がなければなりません。

囚人に囚人服を着せるのは社会的なアイデンティティをはく奪するためです。

服を選ぶとき、
私はちょっと先の実現可能な目標を考えてくださいと言っていますが、
それは、未来の社会的アイデンティティのためです。
それはいまよりちょっと違うはずだから、
それを先取りしなさいよ、ということです。

私たちは成長します。
ですから、社会的アイデンティティにも少しずつ修正をかけていきます。
これがスムーズにできていれば、
毎日、朝起きて着る服がない、ということはありません。
これができている人は、
例えば転職や離婚といった、社会的アイデンティティが変化する場合においても、
容易に対応することができると思います。
ただ、そのときの変化は急激なものかもしれません。
全部、以前の服を捨てる、というような。

では過去も現在も未来も着る服がないと感じている人とはどういう人なのでしょうか。
それはね。
そ、それは・・・
社会的アイデンティティを自分で育ててこなかった人です。
自分で育てなかったので、自分ではわかりません。
子供のころは親が決めたものを着て、
学生になったら学生服を着てと、
そこまでは普通ですし、それでよかったでしょう。
けれども、問題はその先ですよね。

ここで誤解してほしくないのは、
私が使っている「社会」は、
日本で「社会人」「女性の社会参加」というようなときに使う「社会」ではないということ。
だから、働いていお金を稼いでいる人は社会に属していて、
そうでないときば属していないとか、そういう意味での「社会」ではないです。
普通、社会学で使うのはそんな限定的な意味ではないです。
だから、主婦は社会的アイデンティティなんてないよ、などという意味ではありませんので、
誤解しないように。


実は、私が「実現可能な未来の目標は何ですか?」と聞いただけで、
泣いて帰ってしまった方がいます。
(お代はいただきませんでしたよ!)
最初、意味がわからなかったんですけれども、
あとでわかりました。
その方は、自分で社会的アイデンティティを育ててこなかったんです。
私は未来の実現可能な目標は、いまより健康な自分でもいいと、言っているでしょう?
何も社会的な成功とか、そんなことは言っていない。
けれども、自分で育ててこなかった人にはそれさえないのです。
そうすると、何を着ていいかわからない。
衣服は社会との接点だから、
社会的なアイデンティティがなかったら、着るという行為は、
ただ単に暑さ寒さをしのぎ生活するための行為になってしまいます。
別にそれでもいいんですよ。
いいのだけれども、人は社会的な存在なので、
それだけでは不安なのです。

自分で自分を育ててこなかった人にとって「ない」のは衣服じゃなくて、
社会的アイデンティティです。
それを衣服の問題にすり替えています。
買っても買っても満たされないのは服じゃなくて、依存症の問題であるのと同じようなすり替えが、
ここでもなされます。

自分で自分のアイデンティティ をしっかり育ててこなかった人は、
どんなに服を買っても、
どんなにたくさんの服が売られていたとしても、
「着る服がない」と言い続けるでしょう。
衣服のせいにしている限り、その問題が解決することはありません。


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2017年8月18日金曜日

皆さん、どうしておしゃれになりたいんでしょう?と聞かれたけれども

皆さん、どうしておしゃれになりたいのでしょうか?と、
聞かれたのですけれども、
皆さんがどうしておしゃれになりたいのかは、
私は存じません。
それについてはリサーチしていないです。
それは学校で、みんな、どうして勉強したいの?と、聞かないのと同じ。
コルドンブルーにお菓子作りを習いに行って、
どうしてお菓子を作れるようになりたいのかって聞かれないのと同じ。
私にわかるのは自分のことだけです。

で、薄々感づいてはいるだろうけれども、
私がおしゃれというか、ファッションに関心があるのは、
音楽や美術に関心があるのと同じ並びで、
決して自分がおしゃれして誰かに見せびらかしたいってわけじゃありません。
それなので、いつも作る側に関心がある。
だから、スタイリストさんには関心がほとんどないです。
最近見始めたのは、クライアントさんたちがいろいろ言うので見ただけであって、
そうでなかったら、たぶん見ない。
見るとしても、クリエイティブなスタイリングをしている人、
つまり、これ、普通に着て歩けないなというようなスタイリングをしてくる人のだけで、
通勤着のスタイリングとか、全く興味ないです。
例えば好きなのはティム・ウォーカーの写真とスタイリング。
そういうのは大好きだけれど、ほとんどの人は、そういうのに興味がないでしょうね。

見せびらかしたいわけではないので、
買ったものをどんどんインスタグラムにアップするというのは、
逆に嫌です。
自分のものなんて、見せたくないです。
また美術はただ見たいだけであって、それを家に持って帰りたいわけでもないのと同じで、
たくさんの服を持って帰りたい、所持したいという欲望はゼロです。

私はただ単に、いつも自分が心地よく、その場にフィットしている感じでいたいだけで、
それ以上はないな。誰かに見られたいとかも、ない。
むしろ、見なくていいよ、と思っています。私のことは見なくてよい。

皆さんと接していてわかるのは、
私のようにファッションに興味のある人は、もはや少数派であるということです。
ほとんどはファッションなんて興味がない。
興味はないけれども、服は毎日着なきゃいけない、
どうせ着るなら、ちょっとおしゃれなほうがいい、
その程度の人が大半じゃないかと思います。

あとは、おしゃれじゃないと批判の対象になるとか、
「ださい」と言われるのでそれが嫌とか、
そういうのはあると思う。

もちろんほかにもいろいろな理由がある。
けれども、おしゃれをすることで何かを実現しようとすると、
それは失敗に終わると思う。

おしゃれになって人生が変わるとか、
おしゃれになったらハッピーになるとか、
そんなことは、私は言えません。
それは、このブレスレットさえ持てば幸せになれるという、
あの広告に似ている。
そんなふうに人をたぶらかすことは、
私にはできません。
幸せとは、ユングの言うところのセルフになること。
おしゃれしたって、セルフになんて、なれません。

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2017年8月17日木曜日

葛藤があるから努力できる

きのう、衣服は父の愛の代替品であるという仮説を立てました。
父的なものとは、社会という意味ですから、
父の愛が必要なのは、社会的に認められていると感じるためです。
皮膚の外側は、プライベートの外ですから、社会との最初の接点です。 
父からしっかりと認められて育てられた人は、
何らかの結果を出しても出していなくても、
社会的にも認められていると感じることができるので、
父の愛の代替品である衣服に依存することはないでしょう。
依存とは、つまり買っても買ってもまだ渇望するということです。
(スティーブ・ジョブズは渇望してなさそうです!)

本当に必要なのは父の愛、つまり父からの承認ですが、
衣服は単なるその代替品なので、決してそれを満たすことはできません。
だから、自分で自分を認めることが大事であると書きました。
では、自分で自分を認めるとは、具体的にどういうことでしょうか。

父の愛とは、社会からの承認です。
ですから、自分で自分を社会的に承認される存在に育てればいいのです。
社会的な承認は、何も衣服がもたらすわけではありませんし、
社長になるとか、そんな地位を得るということばかりでもありません。

日本で社会というと、何か大きな単位のように感じるかもしれませんが、
社会の最小単位は家族です。
ですから、父に認められなかったということは、最小単位の社会における承認に失敗した、
ということです。
構成する人員が少ないので、誰も認めてくれないということが起こりやすいです。

けれども社会は自分の家族だけではありません。
会社も1つの社会だけれども、学校でも地域でもサークルでも、
すべて社会の1単位です。
(インスタグラムというのも社会の1単位ととらえていいでしょう。
そこで承認されるためには、お買い物自慢がいい、ということになってるのでしょう)

会社で認められるということは、利益を上げるということなので、
日本の女性でその機会が与えられている人は少ないでしょう。
また、働いていない主婦の場合、家族という社会の単位では、
夫が父の代わりとして承認してくれないのなら、やはりその試みも失敗します。
(多くの女性は、夫を父の代替品として使い、父の役割を要求します。
しかしそれが得られないとなると、とたんに冷淡になります)

けれども、社会とはなにも会社や家族だけではありません。
(もちろんインスタグラムやフェイスブックだけでもありません)
そして利益を上げることだけが、社会的に認められるという意味ではありません。
(今の日本は、その点が重要視されすぎています)

どんな形であれ、社会という単位で何らかの役割を担い、認められる存在になれば、
承認欲求は満たされます。
あなたがいてよかったと思われたり、誰かの役に立つことをしたり、奉仕したり、
そんなことで承認は得られます。
親が愛を与えてくれなかったことによる葛藤は、
努力するためのエネルギーとなります。

その葛藤をエネルギーとして努力するかどうかは選べます。
努力しない人生の人もいます。
けれどもそれはその人の人生ですから、私たちが口出しする必要はありません。
努力しないを選ぶのもいいでしょう。

けれども、本当に人生に満足するためには、
努力して自分で自分を認められるようになる以外ありません。

私たちは、葛藤という努力するためのエネルギーも、
そしてそれを実行する機会も与えられています。
それを利用するもしないも、それぞれの自由です。


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2017年8月16日水曜日

服は何の代替品だろう?

スイーツは、特に乳製品と砂糖は母の愛の代替品として用いられるが、
服は何の代替品だろう?
どちらも依存性があるが・・・
わからないので、ここに疑問を投げかけておく。

え、まさか、父の愛の代替品なの?
そ、そうなの?

しかし、スイーツが内側をかりそめに満たすとして、
服は外側からのかりそめの承認を得るための道具だものね。
そうか。
父は社会性という意味だから。
似合うって言われたい、おしゃれって言われたいという欲求は、
お父さんに認めてもらいたいってことなのね。

スイーツは母の愛の代替品、
皮膚の外側の殻である衣装は、父の愛の代替品か。
過度にそれを求める人は、
幼少期にそれを親から与えられなかった、
もしくは与えられなかったと感じたんだね。
お父さんに認められなかったと感じている(もしくは無意識にそう感じている)人は、
服を買っても買っても、まだ足りないと感じる。
そして誰かに似合うねとか、おしゃれだねと言われることを熱望する。

けれどもスイーツも衣服もしょせん代替品。
決して満たされることはないんだよ。
スイーツをいくら食べても、あなたが欲しかった母の愛のかわりにはならないし、
服をたくさん買っても買っても、父の愛、つまり父から承認されるということのかわりにはならない。
どんなに買っても買っても足りないと感じるのは、
まだまだ父が認めてくれないと思っているから。

じゃあどうしたらいいか?
あなたが自分自身の父と母になるしかない。
そして自分で自分に愛を与え、自分で自分を認める以外に、
それを満たす方法はないです。